円応教 ロゴ

立教百年祭

立教百年祭は、多くの方々のご参拝を頂きまして、盛大に開催することが出来ました。
誠に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
また、立教百年祭の行事模様を掲載させていただきます。しばらくお待ちください。

行事報告
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記念ロゴ

百年祭 記念ロゴの画像

お役に立てることもこの上ない喜びに感じております。
また、立教百年祭に微力ながら『世の中の道具』として以上のことをイメージし、思いを込めて制作いたしました。
それぞれの時代に教えを信じて生かされる、信者の喜び。
円上の大・中・小のサクラ繋がる信仰の継承と発展の偉大さ。御教祖様、初代教主様、現教主様と、立教から百年祭に・生き生かされる宇宙の大円と、円応教の御教えが、3重の外輪(円)・円応教の五つの教えをいただきたいと願う信者の姿。

記念歌
〜ご教祖とともに〜

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ごあいさつmessage

二代教主 深田 充啓の写真

二代教主 深田 充啓

「立教百年祭記念式典」御親教

立教百年祭、皆様おめでとうございます。
今は皆様にご挨拶を申し上げましたけれども、今度は御教祖様にお礼申し上げますので、皆様、ご一緒にお願いしたいと思います。「御教祖様、立教百年祭、おめでとうございます」と申し上げますので、一つよろしくお願いしたいと思います。
「御教祖様、立教百年祭、おめでとうございます」。
ありがとうございました。やっと心が晴れ晴れと致しました。
本当に待ちに待った百年祭でございます。皆様の心で百年を迎えることができ、皆様の誠の心が結集されて、今日ここに本殿で百年祭を開催することができましたこと、大きな喜びでございます。感謝感激、この上もない感無量でいっぱいでございます。信者の皆様があればこそと、心より深く感謝申し上げる次第でございます。
同時に、本殿、修法殿建設には、皆様の真心と誠の愛を頂きまして、改めてお礼を申し上げます。そのお陰で、今日の式典がある訳でございます。
ただいま、ご挨拶を頂きましたご来賓の先生方におかれましては、本当にご多忙の中、お越しをいただき、お祝辞を賜りましたこと、深く感謝を申し上げます。ありがとうございました。
御教祖様が大正八年七月十六日に天啓をお享けになられましてから、ちょうど今日が百年でございます。
本日こうして皆様と共に、同じ日、同じ百年、御教祖様が多分今日の夜、神からの啓示をお享けになった日だろうと思うのでございます。立教百年祭を迎えさせていただいたこと、この上もない喜びでございます。
本当にありがとうございます。
百寿とよく言いますけれども、人間の百歳というのはなかなか難しゅうございますけれども、つい最近、ある信者さんで、ちょうど百歳になっていらっしゃる方を一度お見受けをした訳でございます。
なかなか百歳までは無理でございますけれども、今の時代でございましたら、医学が進歩しておりますから、まだまだ百歳以上の方々が今後とも増えるかも分かりません。どうか皆様も、その時にこそ、こうした百年の喜びをかみしめていただきたいと思うのでございます。
御教祖様の人格が、み教えがすばらしかったと、そのご指導がよかったと、そういうことですが、御教祖様におつきになった、直接師事された先生方があり、またその先生方からご指導をお受けになった皆様があってこそ、今日の日が迎えられたのでございます。どれだけ徳の高い方、立派な教えをお立てになった人がありましても、その教えを学び、行うことが大切でございます。その徳と光が、私たちの毎日の暮らしの中に生きているのではなかろうかと思っております。
ただいま、皆様と共に御教祖様にお礼を申し上げました。その中で私は、このように聞こえてきました。「よく来てくださいましたね。本当にお礼申し上げます」と、御教祖様は私におっしゃっていただいていると思うのでございます。多分皆様も、そうであろうと思うのでございます。本当にご苦労さまでございました。
信者の皆様が、こうして崇敬者の皆様と共々にこの教団にお参りをいただきまして、誠を尽くしてくださる。そうして私たち一人ひとりがこの円応教の宝であり、また、原動力となってお働きになっていただくことは、この上ない喜びでございます。先ほどビデオで「円応教百年の歩み」を見ながら、今日、立教百年を迎えることができたのは、やはり初代教主様が、あるいは御教祖様があればこそ、教団を設立し、そうして改めて私たち信者の、この大きな力をお作りになったものと感謝でいっぱいでございます。
御教祖様は、数え三十三歳で天啓をお享けなさいました。
神からのお示しをお聞きになって、むろん神がかりの状態になられたということでございますけれども、本当は神様から「あなたにはこれだけの使命がある」と、そういうことを教えていただかれたのではなかろうかと思っております。
その使命は、皆様もご承知のように『世の中の道具』になるということでございます。世のため、人のために使われる人、そういう人になれということなんですね。世の中の人のために奉仕をする、お支えさしてもらう、いわゆる喜んでいただける働きをすることが一番大事であろうと思います。
御教祖様は「神の使いしめ」として、そうしてすべてのものを捨て、人間としての執着を離れ、うかびのままに歩まれた。誠の追求のみの道でございます。身も心も、その誠を尽くして行じられたのでございます。
わずか五年七ヵ月ではございましたけれども、昼夜を分かたず修行と研究に没頭され、その中に霊導によって人々を救済する修法、仏教的には「しゅほう」という言い方がございますけれども、私たちの言葉でいえば「しゅうほう」と言いますが、それを編み出されました。
今は、姿はお目にかかれませんが、霊となって働いてくださっていらっしゃいます。
皆様のお手元にある桜珠。私はいつも、これが御教祖様であると信じております。ここに持っております。皆様もお持ちであろうと思いますが、この珠の中に一つだけ大きな珠がございます。この珠は、御教祖様のすなわち桜の木の枝でございます。 その桜の木の根は、御教祖様のそのご遺骸を包み、お守り申し上げた尊い宝でございます。
どうかそれをみ霊として、今後とも自らの喜びや自らの幸せを、そうして自分の願いをかなえていただくことに、お使いになっていただきたく思っておる次第でございます。
このようにして御教祖様から、この桜の木をいつも大事に、そうして私たちに与えられたものだと信じておる訳でございます。御教祖様を信じる私たちの中には、今もなお生き続けてくださっております。私たちを見守り、助けていただき、導いてくださっておる訳でございます。
ですから御教祖様は、ご生存中もそうでございました。一日のうちに信者様の家をずっとお回りになった。そうして霊でお訪ねなさいまして、「この家はこうでしょう」、「この家はこうしなさい、こうあって欲しい」、そういうことを自らのうかびで、お示しいただかれたのでございます。
私たちの毎日の生活というものは、そのようにして、一人ひとりの心の中に神の宿ることを思い、そして、それを信じていくのでございます。
どうか私たちがこの百年祭のこの日に、共に行じていただいて、多くの方々に、私たちの信じる言葉、すなわち、「一の我の研究 真の誠と思います」(教典162項)。この働きを多くの方々にお示しになっていただきたく思っておる次第でございます。
自らを顧みて、誠にあった謙虚な心をもって、自らが自覚反省懴悔の心を繰り返していくことが大事じゃなかろうかと思っております。
いろいろな事情があったとしても、「そんなことは問題じゃない、とにかくこれが誠であるのだ」と思う時には、ひたすらいちずに、ただその道に黙々として行じさせていただくことがございましょう。
けれども私たちは、一つひとつそれを行じて、自覚反省懴悔があればこそ、自らがすばらしい道を開いていくものだと信じておるのでございます。
今年は立教百年の年でありますが、また一方、円応教にとりましては、教団設立七十年の年でもあります。本当に大きな節目を頂きました。
大御親様、あるいは御教祖様、初代教主様に新たな布教伝道の道に精進させていただきますことを、私たちはここにお誓いをしていきたいと思っております。
本日は、立教百年祭に皆様こうしてお参りをいただきましたこと、心からうれしく感謝申し上げる次第でございます。本当にありがとうございました。
今は百年です。明日からは百一年。もう日は変わるんです。日というものは、一日一日、一刻一刻、現在が過去になり、現在から未来へと変わっております。
百年と思っておりましても、早一年、二年が過ぎてまいります。いつまた百十年をやるか、それはまあ別に致しましても、私たちはそういう気持ちをいつも心にして、多くの方々に喜びと幸せの輪をお説きになって、多くの方々に信仰の喜びをお伝えしていただくことをこいねがう次第でございます。
今回はこうして、皆様と共々に百年祭の祭典を執り行うことができましたことは、この上ない喜びでございます。
誠にありがとうございました。

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「墓前式典」御親教(平成三十年)

皆様、明けましておめでとうございます。
 立教百年の幕開けです。こうして皆様と共に迎えられ、喜びもひとしおでございます。誠にありがとうございました。
 立教百年に逢わされたと思っても、このような貴重な体験に遭遇するということは、なかなかございません。まずは逢わせていただけることに感謝を申し上げる次第でございます。
 そうしてこのすばらしいみ教えをお遺しいただきました御教祖様、その教えを現在まで宣布し続けてくださいました先人の先生方に心より深く感謝を申し上げる次第でございます。
 本日は早朝より、この丹波に寒風の吹く中、皆様とご一緒に第九十四回教祖祭、墓前式典を共に行じさせていただきましたこと、誠にありがとうございました。
 信仰の世界にはいろいろ修行がございますが、私は円応教の信者として、御教祖様のみ霊鎮まりますこのご墓前にぬかずき、共に行じさせていただくこの寒行こそが、今年一年のことを心して、何があっても感謝の心で務めることができる、そのお力を頂く原点でございます。
 そういうお力を頂くことに深く感謝をしております。
 また今年は、格別に立教百年祭に向けて、それぞれが目標やお誓いをお立てになりまして、そうして御教祖様とご縁を頂き、「今、私たちは幸せです」と言われますように、自らの救われた体験を通じて、み教えのすばらしさを、より多くの方々にお伝えしていただき、そうして一人でも多くの方が幸せに、笑顔になっていただくことに、精進していただきたく思っている次第でございます。
 それが御教祖様への第一の報恩行と思っております。
 自分のことを祈るよりも、人様の幸せのために祈らせていただく。御教祖様から頂いたご恩を、人様を通じてお返しさせていただける私たちでありたいと願っております。
 御教祖様は「私は家の中でじっとしていても、毎日皆様の家を一回りしているのやで」と、こうおっしゃっていらっしゃいます。今もなお、いつも霊によって信者様のその毎日の生活を見守っていただいております。どうか同行二人の気持ちを忘れることなく、立教百年祭に向けての私たちの意気込みを、感謝の誠をささげさせていただきましょう。
 そのためにも、できるだけたくさんの方に「お声がけ」をさせていただく、円応教とのご縁をつなぐ「お導き」に努めていただきたいと思っております。
 七月の立教百年祭には多くの方々と共に参拝していただき、共に喜びを分かちあいましょう。そうして自らの働きによって、今年も喜び深き一年になりますよう、共に頑張りましょう。
 今日はお寒い中、誠にありがとうございました。心より感謝を申し上げる次第でございます。
 ありがとうございました。

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教祖祭 祥月式典(第九十四回)

教典201
 私は木の下に寝るとて人は木の上に寝さしたきばかです また私の目の先に見えると人の姿は同じことに見えますゆえ 例いみれば あしたの日泣く子より今日泣きて行先難儀な子供かわいいと思いおるばかです
 失礼致します。
 今日は早朝より、御教祖様の墓前におきまして第九十四回の教祖祭、墓前式典に共々におつとめをいただきまして誠にありがとうございました。
 立教百年祭に向かって喜びあふれる一年にしていただきたいと思っております。
 教典の百三ページの二〇一項を、お話しさせていただきます。少し長いのですが、御教祖様は、こういうことをおっしゃっております。
 私は木の下に寝るとて人は木の上に寝さしたきばかです また私の目の先に見えると人の姿は同じことに見えますゆえ 例いみれば あしたの日泣く子より今日泣きて行先難儀な子供かわいいと思いおるばかです
 というおことばでございます。
 非常に分かりやすいようでございますけども、ちょっと難しい感じも致します。
 まず、「私は木の下に寝る」 。
 日本ではそういうことはございませんけれども、特に東南アジアに行きますと、そういうことがよくございます。 私たちは大体、普通でありましたら、一階とか二階に寝ますけれども、東南アジアに行きますと、一階は非常に水が多い。雨季があるということでございますから、どうしても上に上がる、あるいは獣が下におりますから、どうしても二階に上がる、そのように地面からかなり上に上がったところに床を作って寝る。
 日本ではそういう建物は少ないのですが、東南アジアとか暑いところに行きますと、雨季には雨が毎日毎日降るのです。今まで道であったのが洪水でもう何も分からなくなり、そのため床を高くして二階のようなところで寝る訳ですね。
 御教祖様は、私は下で、そして大事な人は上でお休みになると。
 とにかく上下ということではなくして、自らがそういう謙虚な気持ちを持って、人より下から行きましょう、人様とともに歩ませていただきましょう、こうおっしゃっているのであろうと思うのでございます。
 そういう謙虚な心で、馬鹿者です、とこうおっしゃっていらっしゃいます。
 人から「お前は馬鹿か」とか言われますと、「何を言うんだ」とすぐに怒りますけれども、自分から馬鹿者と言う人は本当にいないものです。
 私たちは、自分の足りないところを自分で自覚するということは非常に少ないのです。自分を懴悔するという意味があろうと思っております。
 すなわち自分の言っていることの愚かさ、あるいは自分のやっていることの無知、あるいは自分自身で自覚する、そういうことが足らないのではなかろうかと思うのでございます。
 ですから、何事でも「いや私が足らなかった」という謙虚な心で表していく、そこに信仰における救われる道がある訳でしょうね。
 だから御教祖様には、いつも「自分は馬鹿です」、「自分は足りないのです」そういう謙虚さがある。
 ただ単に、「わしは馬鹿じゃ、わしは悪いもんじゃ」というような言葉ではなくして、謙虚な気持ちでそういう言葉を使っていらっしゃると思うのでございます。
 私たち信仰させていただく者は、もっともっと何事においても謙虚でならなければならない。
 私たちの教団におきましても、多くの方々にご奉仕をしていただいておりますが、つい相手をあなどって、いやそうではなくして自分が偉そうな気持ちになって、何でも「私の下についてこい」、「わしの思うようにせい」、とこういうようなことがよくございます。そうではなくして、どこまでも謙虚な心で行じていく、これが一番大事でございます。
 また、「私の目の先に見えると人の姿は同じことに見えますゆえ」。
 そのように人様を大事に致しまして、何も上とか下とか、そういう区別はしておりませんが、信者訓戒の一番最初にございますように、「人間性を重視し、人種男女の差別を廃し、礼節を尚び」。そういうことをちゃんと教えていらっしゃるのでございます。
 「礼節を尚ぶ」ということは、それを忘れてしまって何でも平等であったらいいという平等ではなくして、間違っているところは間違っているとお互いが謙虚でならなければならないのでございます。
 お互いの持っている責任というものをしっかり自覚して、そうして御教祖様のおっしゃるような責任を果たしてこそ、お互いが平等になるのです。そういうことをおっしゃっているのではなかろうかと思うのでございます。
 人のために尽くしておれば、人様がたえずお喜びになり、どんなことでも人様が笑顔になっていただける、そういうような働き、それが私たちの日常の生活ではなかろうかと思うのでございます。
 この人あの人と、そういう区別をするのではなくして、お互いがいつもそういう心で、どんな時でも心を尽くしていく、そういう気持ちがなければならないと思います。
 「例いみれば あしたの日泣く子より今日泣きて行先難儀な子供かわいいと思いおるばかです」ということを、御教祖様はご反省になって、あるいは謙虚な気持ちでおっしゃっていらっしゃいます。
 自分は偉いと思っておったら、人を見たとき差別が起こるのでございます。自分は偉いとか、おまえは私より下だと、同じ人間に見えない。自分が偉いと思っているから、人がそういうように見えてくるのではなかろうと思うのでございます。
 御教祖様のように、本当に私は馬鹿者であるというような、本当に馬鹿に徹していらっしゃるところが一番大事であろうと思うのでございます。
 御教祖様が人を見たら、人を上へ上げ、自分は地下の茎、あるいは根のように植物を育てるような、そういう働きを持って行じられていらっしゃいます。すなわち、御教祖様の一番尊いところでありましょう。
 「例いみれば あしたの日泣く子より」。
 明日泣く人、すなわちいろいろな苦しみで明日困られる人とか、泣くという人の悩み、苦しみとか、そういうものをおっしゃっていらっしゃるのでございますけれども、その時、今本当に現実に自分が謙虚な気持ちになって心構えを持たなければならないのであろうと思うのでございます。
 「今日泣きて行先難儀な子供かわいいと思いおるばかです」と、こうおっしゃっていらっしゃいます。
 今日泣いている、そして、行き先はどうしたらいいんだろうかと思っている人、こういう人が「かわいいと思いおるばか」。
 人が困って、苦しんで、悩んでいらっしゃったら、どうしたらその人を救っていけるのだろうか、喜ばしていくことができるのだろうかと、それが私たちの毎日の力であろうかと思っております。
 何とかして自分の力をささげもって、そうして同行二人の働きを行じていただけることが一番大事ではなかろうかと思うのでございます。
 人様を喜ばし、そして人様を楽しませていくようなことをさせていただくことが、本教のすばらしい教えの根幹であろうと思っております。
 しかし、私たちは皆、自分の不足や不満とかを満たしていきたい信仰、そういうものが多くあるように思います。けれども、これでは本当の信仰にならない。自分だけの満足、自分だけの欲のためではなくして、人様のために尽くさせていただく、そういう働きを持たせていただき、「お陰さまで」と共に行じることが大事であろうと思っております。
 人が喜び、楽しめるような行いを相手の方にさせていただく私たちでありたいと思うのでございます。
 どうか御教祖様の心根を思い、いつも人様に喜んでいただくために、どうしたらいいか、御教祖様と同行二人で歩ませていただく、そういう一年になっていただきたいと思うのでございます。
 そのために私たちは今、 申し上げましたように、人様のために祈らせてもらう、そうした祈りが大切なものであるということを自覚反省することがあろうと思うのでございます。
 今年の七月十四日、十五日、十六日の立教百年祭には、たくさんの方々をお誘いし、 参拝していただけると思っております。
 けれども、何からでも御教祖様にご恩返しをさせていただくことが一番大事であろうと思っております。そういう強き信念を持って、一人からでも何度も何度もお声をかけて、そうして百年祭に導いてくださる行をさせていただくことが大事であると思うのでございます。
 その働きが自らの喜びとなって 、そうして本年が多くの方々に喜び深い一年になっていくことを念じてやまない次第でございます。
 本年は、私たちの二度と巡りあうことのない立教百年祭を皆様と共に行じさせていただき、御教祖様にこのすばらしい私たちが生き生かされていることを感謝申し上げていきたいと念じている次第でございます。どうか立教百年祭を一人ひとりが行じられて、誠の道が多くの方々と分かち合えられることを切に念願して今日の喜びと代えたい次第でございます。
 本当に今日は寒い中、早くからこのおつとめに行じてくださいましたこと、心より感謝申し上げる次第でございます。
 本当にありがとうございました。

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「元旦祭」御親教(平成三十年)

立教百年の年、明けましておめでとうございます。
 今年は、戊戌の年でございます。そして待ちに待ちました、立教百年の年でございます。 皆さん、本当におめでとうございます。
 人生において実際に自分自身にかかわることで、百年という出来事に遭遇するという体験はなかなかありませんが、立教百年祭というそのようなありがたい体験をすることは、これはなかなか難しいものです。そんな貴重な体験は信仰のお陰だと心より感謝申し上げております。
 本当にありがとうございます。
 御教祖様が大御親様から天啓をお享けになって百年、多くの先人の先生方のご努力と強き信念によって守られ、み教えは継承されてきました。皆様を喜びと幸せに導くすばらしいみ教えをお遺しになった訳でございます。
 そうしてその教えを現在まで宣布し続けてくださいました先輩諸先生方に、心より深謝申し上げる次第でございます。
 尊い百年の歴史の中に、多くの信者の皆様の真心と愛と誠に支えられ、お陰様で教団もだんだんと大きくなってまいりました。喜びあふれる年を迎え、御教祖様に直接師事された先生方が、どのように御教祖様にお仕えになり、どのように教えられ、どのように悟られてきたかということを耳にすることがよくございます。その信念と意気込みを、今一度学ばせていただき、 歩んで行かなければならないと思っている次第でございます。
 御教祖様をどこまでもお慕いし、随順、帰依、奉仕の誠を貫かれましたそのお姿を思いますと、時代は違いますが、私たちもそれだけの務めを果たしているでしょうか。
 自らの姿勢と照らし合わせて正して見てください。
 いかがでございましょうか。
 少しでも先生方の信念に近づけるような努力をし、いつも御教祖様と同行二人で歩ませていただきたいと思っております。
 円応教にご縁を頂いたからには、御教祖様のみ教えによって自らを良き方向に変え、私たちの働きによって周りを明るく、楽しく、笑顔があふれる家庭、地域社会へとなるように努めさせていただくことが大事であろうと思うのでございます。
 御教祖様のおことばの中に「千代子の研究楽しみは 人様に喜ばし与えるが楽しみ」(教典二〇七項)とございます。
 御教祖様の思いに沿わせていただける報恩行につながると信じて、本年七月十四日、十五日、十六日の三日間にわたる立教百年祭を行じさせていただく予定でございます。
 どうか立教百年祭の喜びを皆様と共に分かち合い、感謝と祈りの気持ちをささげさせていただきたく思う次第でございます。
 私たちの本年の目標は、まず立教百年に向かって何をするか、何をさせていただくかということでございます。
 いろいろありましょうが、 ご奉仕につとめる方、あるいはイベントに参加する人、これももちろん大切ですが、まず立教百年祭の成功は、なんといってもお誘いの行です。
 まずは初めての方に声を掛けていただき、信仰に導いていただく、自らできるだけたくさんのお方に「お声がけ」をさせていただく、円応教とのご縁をつないでいただく元を作ることでございます。なんといってもお導きの行に努めていただきたいと思っております。
 家族参拝はもちろんのこと、多くの皆様に声を掛け、自らの喜びと体験を通して感じられた、み教えのすばらしさを何度も何度も話してみてください。そうして一度呼び掛け、二度呼び掛け、自らのその生活を繰り返して、多くの方々を導きの行にお誘いすることでございます。
 「あなたが勧めてくださるなら間違いない」、と思っていただけるような円応教の信仰と、「お声がけ」の積み重ねに、よりよい努力精進をさせていただくことが私たちの働きでございましょう。
 その導きの種をまくことこそが、 立教百年祭の後に続く布教と信じております。
 御教祖様をお偲び申し上げ、報恩感謝の誠をおささげできる、 すばらしい年です。一生の中でも二度と巡り合うことのない出来事でございます。
 この喜びを、この記念すべき今年一年を、無事皆様とつとめさせていただきたい、誠一途に皆様と共に行じさせていただきたく思っております。
 どうか今年一年、立教百年祭のこの意義を心にかみしめ、努力精進して御教祖様にお応えすることが大事であろうと思っております。
 皆様も共々に行じていただくことをお願い申し上げる次第でございます。
 本日は誠にありがとうございました。

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