信仰の基礎

円応教とはどんな教えですか。

ひとことで言えば、「人間は世の中のために働かせていただくために生まれてきている」という、つまり『世の中の道具になる』というみ教えであります。
教祖が数え年33歳のとき、大正8年7月16日に天啓を享けました※「この女 生まれつきよりそなわり 四十になれば 神の使いしめに生まれ 世の中の道具になる生まれであるが 余り世の中が進み 七年早く行人となり 世の道具になるか 霊で働かすか 姿で働かすか」とありますように、教祖の教義の根本は「世の中の道具になる」ことにあるのでありまして、これが立教の本義であります。

※この女(教祖)は、もともと40歳になると神・仏(大御親様・おおみおやさま)の使いとなって、世の中の人々に楽しみや、喜びを与え奉仕をさせて頂くように生まれる前から決まっている身であるが、世の中が進み、7年早く33歳のこのときから誠の道を修行して、大御親様のみ業(わざ)を助けさせて頂くか、そのためには、霊(たま)〔昇天後、霊(れい)として〕で働くか、姿〔生きたまま〕で働かすかと、御主人様に問いただされました。御主人様は人として「姿で働かしください」と答えられました。これが啓示の根本となり、自らの予言通り、その後7年間をこの世で姿として働かれました。

立教の本義について教えてください。

立教の本義は、前の問いの答にも申してありますように「世の中の道具」になることであります。では、「世の中の道具になる」ということはどのようなことでしょうか。簡単に言えば「世の中」とは、人間が集まってこの自然の中に暮らさせて頂いているところ、それが世の中であります。わたし一人では世の中にはなりません。人という字は、文字の上で見ましても持ちつ持たれつ両方から支え合っています。この支え合うところの二人以上の組み合わせ、これが世の中であります。夫婦、それが発展して家族、さらに社会、そして森羅万象(しんらばんしょう)一切の中に生かされております。その世の中というものをどこまでも広げてゆけば宇宙全体ということになります。宇宙全体の中に生を受け、生かされ暮らさせてもらつているわたしたちであります。その宇宙全体の中にあるわたしをよくよく見つめてみますと、宇宙の中にわたしがありますし、また、わたしの中に宇宙があるとも言えます。なお、あらゆるところに、あらゆるものの中に、神や仏がおわしまして、その中に生を受けたわたしであります。また、そのものがわたしの中にあるとも言えましよう。すなわち、「宇宙は我なり、我は宇宙なり」、これが世の中に生を受け生かされているところの真実の姿であり、これが世の中であります。

なお、この人と万物が生かされている世の中こそ大御親様(おおみおやさま)の大愛大慈悲(だいあいだいじひ)によるみ業(わざ)であるという信じ方こそ円応教のみ教えであります。
「道具」とは道を表すもの、すなわち道具であり、道を表すとは、真実を表す、誠を表すことを申します。生命にはそれぞれの生きるための、また、生かされるための使命があり、その使命のままの生き方、生かされ方を全うすることが「世の中の道具になる」ということであります。その働きがお互いの生命を生かし合っているのであります。
結局、「世の中の道具になる」とは、大御親様(おおみおやさま)の万物を生かそうとなさる「み業(わざ)」を助けさせてもらう働きであります。身近な立場で表現いたしますと「人様が喜び、楽しみ、幸せになって頂くようなことをひたすら行わせてもらうこと」つまり、「奉仕をさせて頂くこと」、これが「世の中の道具になる」ということであります。

教祖の心とその理想は、どのようなものであったのでしょうか。

大御親様(おおみおやさま)の「み心」のままに「み業(わざ)」のままに、すべてをお任せし、ただ一筋に「誠」に成り切ろうとなさったのであります。どこまでも「我にて知らず知らずの悪き我のことお知らせ願います」(教典四〇項)と自覚反省懺悔(じかくはんせいざんげ)の中から、自分を真実、誠、神仏と一つの心になるようにとひたすらに行(ぎょう)じられました。

その一例を挙げますと、行衣(ぎょうえ)のお着替えも、ラムネ一本お上がりになるのも「うかび」(→基本用語講座「うかび」)によってなされ、決して自分勝手にはなさいませんでした。なお、物の生命を大切になさいましたのも、森羅万象(しんらばんしょう)一切を神仏と拝み、その生命と一体になるよう行じられたからであります。それもすべては大御親様(おおみおやさま)のみ業(わざ)にまつらわして頂く一念でした。結局、完全なる「世の中の道具」になりきることが、教祖の理想でした。なお「霊(たま)となっても働かねばならぬ自己である」ことを、信念とされていたのであります。教祖の霊導が今もなお信ずる者の心の中に、生き通されていますのも、すべてこの教祖の心「信念と理想」が生き続けられているからであります。

宇宙生命、大御親様(おおみおやさま)、永遠の生命の意義を教えてください。

『わたしたち人間の生命を培い、万事万物をはぐくみ、共に生き生かされるところの根源を「宇宙生命」と言い、「大御親様」と言うのであります。つまり「生きているのではない、人と万物によって生かされている」(生活のかて14日)と言われますが、その生かされている自分も、また生かしてくれている万物をも、すべてを生かしてくださる根源のことであります。

なお「永遠の生命」とは、大御親様のみ業(わざ)に名付けた一つの表現とも言えますが、永遠に生き続ける生命、無限の大宇宙に生成化育発展(せいせいかいくはってん)する生命、つまり永遠の生命は、わたしの中にもあり、わたしを離れた森羅万象(しんらばんしょう)の中にもある、自分の両親や先祖の生命は、自分の中にあり、なお自分に連なるところのもの、すなわち、森羅万象のどこかにもいられる、だから自分も永遠の生命を持っている。するとわたしが死んでしまったら、わたしの生命というものは育成的な生命として、大宇宙の中に生き続け、また人の生命の中にもいるかも分かりません。
人間個人の生命としては血族的生命(けつぞくてきせいめい)として子孫にしか伝わりませんけれども、わたしの生命の働きは、言葉を通して、行いを通して、わたしの触れさせてもらった人の中に心を通して生かされてゆく、つまり育成的生命(いくせいてきせいめい)として生かされていきます。
すなわち永遠の生命というのは、大御親様(おおみおやさま)のみ業(わざ)によって育成的な生命と血族的な生命として、この二つのものが相寄った生命の働きを永遠に致します。これを永遠の生命と言うのであります』と初代教主は、教えられています。

円応の字義がそのままみ教えのようですが、その真意を教えてください。

その通りです。円応の円は真理を表し、応はそれに応ずる、順応する、すなわち、大御親様(おおみおやさま)のみ心のままにお従い申し上げます。お応(こた)え申し上げますというのが「円応」であります。なお、その真意は、森羅万象(しんらばんしょう)すべての生命の基づくところ、円の中心―大御親様―より無限大の円周に生成化育発展(せいせいかいくはってん)する永遠の生命と、この中心を求め、信じ、崇(あが)め、応(おお)じ、融合(ゆうごう)しようとする永遠の今の生命(個々の生命)との通じ合う、円融一如(えんゆういちにょ)の生き方、生かされ方を表しています。つまり、み教えそのものであります。 

教義の五綱目とは、どんなことでしょうか。

「世の中の道具になる」ということを教えの根本として、教祖は信仰の対象について、神仏の祭り方や心がまえについて「まと」として説かれています。
円応教では、どの神様を拝んだらいい、この神様を拝んではいけない、この仏様を拝んで、この仏様は拝まなくてもいい、というような教えは説かれていません。あらゆる人が、この神様、仏様なればと信じて崇(あが)め奉っているものに対しては、教祖は、絶対の随順(ずいじゅん)と帰依(きえ)をささげています。ここに教祖の「まと」の根本の真意があります。

次に、「世の中の道具」になるためとして「誠」でなければいけない。いや、誠だけではいけない、さらに「愛」がなければいけないという研究が必要となります。すなわち相手と一体となるところの真理、すなわち真理と一体となる、神様や仏様と神人交歓(しんじんこうかん)の境地になるような、神様、仏様の中に融け込ませてもらうような人にならなければならない、という教えが「愛」なのです。この誠と愛の行(ぎょう)じ方として「善」がなければなりません。なおこれらの道の表し方として「陰の行者」でなければなりません。表だけで、すなわち、人の見ておるところだけでいいことをして、陰、すなわち、だれも知らないところで怠けておって、陰の悪いことをしたりするようなことであれば、これでは真理を表すことはできない、「愛」の姿になることもできない、「誠」をそのまま実現することもできない、だから人間は「陰の行者」でなければいけない、と教えられています。
つまり教義の五綱目とは、み教えの信じ方、行じ方を分かりやすく説いて頂いたものでありまして、以上の「まと」「誠」「愛」「善」「陰の行」のことであります。

神、仏についての考え方を教えてください。

「神といい、仏という、かりそめに言(こと)こそ違(たが)え、二者は一にして二にあらず。」と自覚反省懺悔文(じかくはんせいざんげもん)の第二節に説かれてありますが、神、仏と名称は異なりますが、その実体は一つで、共に尊い真理を表現した語であり、宇宙の真理、大自然の偉大な誠の力を崇敬(すうけい)する上においての同体異名でありまして、つまりわたしたち人間、万物の生命を培い、はぐくみ、共に生き生かしてくださる根源であります。円応教では大御親様(おおみおやさま)と言って尊称しております。これらのことから、円応教は神仏一体の宗教であります。

信仰対象についての考え方を教えてください。

本教では、人間の生命を培い、共に生き生かされるところの根源を大御親様(おおみおやさま)と申しまして、拝む御本体とし、それと共にわたしたちをお導きくださっている教祖を信仰の対象としてまつらわせて頂き、それ以外は、信仰対象をそれぞれ自由としています。生命を中心として真理を展(の)べ広げられたみ教えですから、生命にまつわる恩恵を頂いた対象すべてにわたり、「森羅万象(しんらばんしょう)ことごとく神、一切衆生(いっさいしゅじょう)ことごとく仏。」として、信じ行(ぎょう)じている信仰ですから、特に、因縁の深い氏神様および産土神様(うぶすながみさま)を敬い、御先祖様を尊ぶことを強調されております。

なぜ先祖供養を行うのですか、その真意を教えてください。

わたしたちの生命は、大御親様(おおみおやさま)の大愛大慈悲(だいあいだいじひ)を頂き、父母の愛によって頂いたものであります。と共に、その父母にも親があり、その親にもまた親があります。このように、宇宙の創業より、永遠の生命の働き、血族的生命(けつぞくてきせいめい)と、育成的生命(いくせいてきせいめい)のお陰によって、今の自分の生命があることを思いますとき、この生命の過去には、子を思う親の慈愛に満ちたつながりと、人と万物の数限りない慈悲があった訳でありまして、その結果として現在のわたしたちの生命となり、生成化育発展(せいせいかいくはってん)する世の中の真実に触れさせて頂けているのであります。
以上のような事実に気付きますとき、人生というものがかけがえもなく尊いものに感じられ、この世に生きる限り、先祖の御恩に、報恩感謝奉仕(ほうおんかんしゃほうし)したいという願いが起きることは人間なれば当然のことでありますし、先祖供養を行う真意もそこにあります。

「心次第」の意義について教えてください。

これは本教独得の言葉でありまして、いわゆる自律的、主体的な心のままということを意味するものであります。誠に向かって、善に向かっての心の移り変わりにつれてということでありまして、したい放題、好き勝手という意味ではありません。つまり、自然のまま、誠のまま、大御親様(おおみおやさま)のみ心のままに心を動かす働きということであります。