教義

教義 本殿と桜の写真

立教の本義

大正8年7月、教祖33才のとき、突如天の啓示を受け『この女生まれつきよりそなわり 四十になれば神の使いしめに生まれ 世の中の道具になる生まれであるが 余り世の中が進み 七年早く行人となり 世の道具になるか 霊で働かすか 姿で働かすか』と夫に問い、以来うかびのまま(神の意志のまま)の暮らしを余儀なくされました。教祖は、人の道を説きまた霊感力により多くの人々を救済し「修法」と後に教典の元になる遺文を多数残して、大正14年1月数え年39才という若さで昇天しました。

後に、初代教主が立教の本義を『世の中の道具』として教団を設立。「道具」とは、人間としての道を現す用具、言語、行道を意味し、文化の創造、人格完成、社会教化の道のりに役立つ道具即物心一如のことをいいます。つまりは奉仕をさせていただくこと。基づくところは、生命の根源であり生成化育発展する宇宙生命、大御親そのものであり、天地同根・万教一元・物心一如・生活即宗教であります。磨かれ、霊性が練磨されていくと理解されています。

一丈香炉の写真

信仰対象

本部の本殿礼拝所及び各地の教会において、信仰対象を奉祭するところを真殿と呼び、中央の真殿に円形の御鏡で大御親を、向って左側の教祖殿に教祖慈照院圓應智覺大姉を、向って右側の祖霊殿に初代教主圓通院天山宗覺居士・深田家先祖代々・深田家の元祖十方宗貫居士・円応教信者各家先祖代々を各々祭ります。

信仰対象は神仏一体として祭り、信者家庭においては教祖慈照院圓應智覺大姉以外は信仰の対象を自由とし、敬神尊祖の教義に基づき氏神と各家の先祖を祭り崇敬することを奨励しています。

また、信仰対象のことを「まと」あるいは「まとう様」とも呼びます。

慈照殿の写真

教義の原典

教祖の遺文より抜粋した「おことば」と初代教主が教祖の教えに鑑み感応のままに著した「日課勤行文」で構成されている「円応教教典」。教祖の遺文は、信仰対象・自叙文・書簡集・行場日記等があり、「御教祖様御遺文集」(上・中・下・補の4巻)として発刊されています。また、初代教主が教典を基に教祖の教えをまとめた「教義概要」があり、「教義の原典」「立教の本義」、及び教義の五綱目である「まと・誠・愛・善・陰の行」を説いています。

教義の五綱目

まと

信仰対象のことを「まと」といいます。信仰対象の中心は大御親であり唯一神論即汎神論であること、信仰する上で最も大切なことは敬けんな心を持つことであり、信仰対象の自由、敬神尊祖、神人一体、心次第、宗教の生活化、修法について説かれています。

信仰の眼目は誠の研究であり、誠に終始する生活にあること。人間の一生は、一に誠の研究、誠の発見、誠の完成への努力誠の生活そのものになりきる誠の努力と行そのものであることが説かれています。また、個人の誠は自己にとどめず一切の人に実現していく回向(衆生済度・社会教化)が大切であることと、誠の道に背く貪・瞋・痴の煩悩(三毒・三不善根)を戒められています。

愛は人間の本性とし、主客一体となろうとする欲求であり自他を超越したところの真・善・美・聖を実現しようとするものであること。人間相互の愛は相対的有限的なものですが、神仏の愛は絶対的無限的であり、一切を生成化育発展させる大愛大慈悲・摂取不捨であることが説かれ、他者の悲しみや患い苦しみを自分の悲しみや患い苦しみと思い、いたわり慈しみ相手になりきって相手を生かす行ないが本当の愛であると教えられています。

誠の道を踏み行なうことが善であり、無貪・無瞋・無痴であることは善意といえます。善行為を積み重ね立派な品性をつくり人格の完成に向けて努力することの大切さが説かれています。病気・災難・煩悶等、人間として不幸と思う一切は「おしらせ」(神仏からの戒めの知らせ)と受け止め、自覚・反省・懺悔して物事を善意に解釈し、人の罪も人の悪いことも自己が在るため自分が悪いためと悟ること、自他一如、自己と万物一切は相即不離の関係にあることが教えられています。

陰の行

教祖は、日常生活の中で陰の自分独りを慎み徳を積むことを強調され、「陰の行」といって人の嫌がるところや目につかないところの清掃等を督励されました。万事万物一切を神仏と見、その中に真理を発見し教えられ自己の心の行を慎み自力によって悟ることであり、お陰信仰ではなく、「させていただく」というどこまでも敬虔な心で実践することが大切であり、この「陰の行」により心身が磨かれ、霊性が練磨されていくと理解されています。

円応教マークの写真

修法

教祖が編み出した人々の救済方法の一つで、他の教団には見られない独特のもの。個人で信仰対象に礼拝して行なう場合(これを「まとあたり」と呼ぶ)と布教師と信者が相向かい拝み合う場合とがあり、両者とも教祖の霊導を信じ個人の霊力の無限性、崇高性、偉大性を自覚反省し、過去現在の行為と品性を懺悔し、また直観力と霊感力を養いこれらによって人格の完成に努め、個人と社会の幸福なる生活を打ち立てることを目的とします。

この修法の中で、手の先を初め体全体に霊の感応が現れる身体的表現とともに布教師の口から発せられる言葉を教文といい、有意的懺悔・片言片句・半意識・無意識と様々であり、リズミカルで陶然心酔たらしめるものが多い。同時に、現在意識・潜在意識を中心に歴史的潜在意識や霊的感応、阿頼耶識の発現により過去現在未来のことが示現されます。

修法を受ける時の心構えは「我にて知らず知らずの悪き我のことおしらせ願います」と心に念じることであり、無理な祈りや願いをかけることではなくあくまでも自覚反省懺悔に徹し、けいけんな心をもって人と社会のために奉仕することが説かれています。