基本用語集

【あ】

うかび

「うかび」とは、わたしたちの感じます、“知る、感じる、欲する”の三つの心の作用のうちで、その中の、感じて知る、※五感六根(ごかんろっこん)を通さずして出てくるものを「うかび」と言い、円応教の中心生命ともいうべきものであります。すなわち円応教の信仰の一手段であり、修法(しゅうほう)の極致であります。
修法は自覚反省懺悔(じかくはんせいざんげ)をするところの重要な一過程でありますが、日常すべてのことを修法によって、自覚反省懺悔を行いますことは、繁雑でやっかいなことでありますので、修法の極致ともいうべき直観力、霊感力、これを教祖は「うかび」といって、わたしたちに残されました。この「うかび」は、わたしたちが誠の生活ができますよう、また、人間らしい暮らしができるようにと、教祖の大愛により、残し頂いたものであります。でありますから、これを扱うには、自分本意な安易な気持ちであってはならないのであります。教祖の常住して頂いております慈悲にお応(こた)えして誠の生活のできますように願い、「うかび」と共に世の中の道具として働かしてもらうべきであります。

※五感(ごかん)視覚、聴覚、きゅう覚、味覚、触覚の五種の感覚
 六根(ろっこん)眼(げん)、鼻(に)、耳(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い)、

おしらせ

教祖の信仰は、無理な祈りや願いではなく、どこまでも人格完成への修養として、煩悩具足でありますところの自己の罪悪深重の懺悔(ざんげ)により、自己を真実に誠に成り切ろうとなさる信仰であります。そのために厳しく自己批判し、反省なされ、祈りの初めに「我にて知らず知らずの悪き我のことおしらせ願います」(教典四〇項)といって、自覚したところの邪悪は分かっていますから、その外の分からない、予想できない自覚しない邪悪や、知らず知らずの悪いことを教え示して頂き、それによって、自覚し反省し懺悔して、なお一層、善に誠に向かって行(ぎょう)じさせてもらうことをお願いするのであります。このように、すべてを「おしらせ」として受け止められたのであります。

【か】

行(ぎょう)

「行」とは人間の一生の働きのことをいうと教えられております。働きとは生命の躍動であります。ですから、そのまま生命であります。人間は世の中のために働くために生まれてきた生命なのです。教祖は、それを「世の中の道具」に生まれてきたとおっしゃられております。このように見てまいりますと、生命―働き―世の中の道具―行、すべてが一つの考え方であります。すなわち、体全体を持って心の命じるままに働いていく、働かせて頂きます。これが行であります。み教えを心として働かせて頂く、それが円応教の行であります。

教文(きょうもん)

教文とは、み教えの文(ことば)であります。自分の言葉、または相対する布教師よりの言葉の表現によって知らされる場合の言葉、これを教文と言っております。お経の場合「経文」と言いますが、経文、教文、いずれも真理の教え、言葉であります。まず教祖の霊導を絶対に信じ念じること、そして信仰対象に礼拝の場合はもちろん、布教師と信者が相向かい拝み合う場合も同じく、双方共、相向かう人を大御親様(おおみおやさま)、教祖として、両者共に敬けんな心で、霊力の無限性、崇高性(すうこうせい)、偉大性を自覚し、反省し、互いに素直に、誠心で、過去と現在の行為と品性について懺悔(ざんげ)することがかなめであります。

研究(けんきゅう)

教祖の「研究」は、誠の研究です。大御親様(おおみおやさま)のみ心にお応(こた)えし、誠に成り切ろうとされた信仰生活でありました。教典四〇〇項の中でさえ177回もお使いになっておられます。わたしたちの生活が誠の研究であり、誠の実践であり、誠のままに成り切ろうとする暮らしでなければならないことを、教祖自らが体験し生活し、わたしたちにこの尊い教えを残しくださったのであります。
わたしたちは素直に敬けんな心で自覚反省懺悔(じかくはんせいざんげ)して、真実の暮らしをしなければなりません。そうすれば、そのままが、自他を幸せにすることになる訳であります。

【さ】

宗医一如(しゅういいちにょ)

御教祖様のお言葉に「薬でも 神仏の道具と思い よく効くように回してもらうも 心大きく思うこと」(教典三三七項)とありますように、病気は字義のごとく気(心)が病むこと、ですから気次第で病気にもなりますし病を治すこともできる訳であります。そして、人間には神仏のみ力、自然治ゆ力が与えられそなわってはおりますが、それには神仏のみ心通りにしなければならないという条件があります。ただし、心の病気も肉体に及びましたときには、医者も薬も神仏のお使いなされる道具ですから、有り難く医者にかかり、その指示によって療養に努め、処方せんによるお薬も飲み、注射も受け、その効果顕著(こうかけんちょ)であるように、すなわち、よく効くように心わだかまりなく大きく広く素直であるように心掛けなければなりません。
信仰しているから医者も薬も不要などと狭い心で、疎(うと)んじたり、粗末にしてはいけません。あたかも「宗医(しゅうい)」は車の両輪であり、共に大御親様(おおみおやさま)の御慈悲のみ業(わざ)の一つであります。

修法(しゅうほう)

教祖が筆舌に尽くせぬ御苦労の行(ぎょう)を積み、この世に初めて編み出されましたもので、自己の救済と相手の救済とをする方法の一つであります。救済と申しましても救済はむしろ各自の心次第でありますから、この修法(しゅうほう)は精神修練の一方法であるとも言えます。
教祖はこの修法に対しまして「行(ぎょう)」とか「お手合わせ」とかの語を使っていましたが、昭和23年6月10日円応教設立と同時に、教祖の呼び慣れていたお言葉とは異なりますが、み心には添うものとして、「修法」と変えられたのであります。変えられた初代教主は、そのとき、次のように言われました。

「行」といえば、その意義が広く、人間の行動のすべてにとられるというきらいがあるし、「お手合わせ」といえば、剣術とか、碁とか、将棋とかの教えをいう場合に使われるので、あまりにも狭義に解せられたりするおそれがある。両方とも外のそういったことと誤られやすいので、これからは「修法」というようにと改めようと、その理由を指示されました。

【た】

治病(ちびょう)

教祖のお言葉に「我一度一度の心行いを 調べて研究下されば 我で我が病気も治り」(教典二四項)「この行(ぎょう)の筋におりて 人に罪をかける心では病気になるは当たり前です 」(教典三七七項)とありますし、また、「病気くらいにあまり大きく思いおりておりません 病気につくまでの用意 またいきあるものの研究ですが」(教典三五二項)とありますから、病気になる原因は自己の一度一度の心の働きと行いとにあるということになりますので、その心と行とが誠の道にかなっているかどうかをよく調べて研究くだされば、自然と病気に対する処置や手当ても分かります。そこで病気は治ると教えられております。

この教えをよく守り、病気にならないようにしなければなりません。でも、万一病気になった場合には医者にもかかり、薬も飲んで、神様、仏様のみ力におすがりすることであります。このようにして自分が救われていくのであります。これは単に病気に限らず、煩悩災難なども、その中に含まれていると言えましよう。治病で最も大切なことは、知るだけでなく、み教えの実行にあります。しかも、心から感謝させて頂き、その通り喜びつつ行(ぎょう)じることが肝要であります。

【は】

煩悩(ぼんのう)

人間の心身を悩ます精神作用のことで、誠の道を踏み行おうとする人間の心を毒(どく)し、覆(おお)うもののことを煩悩(ぼんのう)といいます。この外に、三蓋(さんがい)とか、三毒(さんどく)とか、三不善根(さんふぜんこん)ともいいます。内容は、貪(どん)、瞋(じん)、痴(ち)の三つに分けられております。

  1. 貪(どん)は欲の中にあります。欲のない者は一人もありません。欲がなければ、人間は生きていかれません。欲とは、欲しいということでありまして、すでに持っている物と事を出さないように守るのと、他の物と事を自己のものにしようとすることであります。これには意識するときと意識しないときとあります。人間の生活は人の顔や心が違うように、その人その人によって皆違います。生活が違うということは、その人の欲の深さ、広さ、大きさなども違ってきます。欲の中でも、この貪欲という私利私欲は一番いけないのであります。貪欲とは、むさぼる欲ということで、物事に執着することでありまして、すなわち物事を思い込んで離れない心であります。貪欲は、物事に常住性があるという考えからくるものでありますが、この宇宙すべての事と物には常住性がないのであります。すなわち有為転変(ういてんぺん)、諸行無常(しょぎょうむじょう)であります。この諸行は無常であるという真理が分かれば、私利私欲はあまり起きてまいりません。
  2. 瞋(じん)は、怒りでありまして、怒りは無知(むち)、高慢(こうまん)、えん恨(こん)、侮辱(ぶじょく)からくるものであります。ですから、怒りというものは、自分の知をみがき、ものの道理をわきまえ、誠の道を知っておるか、すべては自分が悪いという謙虚な心で懺悔(ざんげ)さえしておれば、決して怒ることはないのであります。天地自然には、ときに怒りとも見える天災地変が起こり、暴風雷雨がありましても、これらは絶えず天地自然の調和を保つためのものでありますし、また、人間を試練してくださいますが、人間の怒りは誠の道に背き、人の心を損ない、第一自分の心を乱し、安らかではありません。
  3. 痴(ち)は、おろか、ばかもの、たわ言、悔やみ言、愚痴(ぐち)などといいます。愚痴(ぐち)は、無知(むち)、不精(ぶしょう)、不平不満などからきます。愚痴を言うことによって、心の眼(まなこ)を失い、誠の道が立つことも、自分が安心することもありません。

要するにこの貪(どん)、瞋(じん)、痴(ち)を少しでも避けるように行(ぎょう)ずることで、本教では特に強く戒められております。

【ら】

霊感(れいかん)

初代教主は「霊は生命である、だから霊の働きは生命であります。わたしたちが遠い遠い昔から、大御親様(おおみおやさま)の生命を現在現して頂いて、沢山の命の力というものをわたしの体の中に“持ち前”としてあり、また現在のわたしたちがいろいろの社会的な一つの身分というものが付いている。そうしたものを両方から合わしてきたときに、わたしの中に現れてくるところの霊感というものが皆ある。神様から感応力を受けていくような霊感、自分の生命から出る霊感、この両者が一体となった霊感、そこに神人一体(しんじんいったい)の霊力の発揮がある。真に大御親様(おおみおやさま)のみ業(わざ)を助けさせて頂く信仰生活により、この霊力による霊感は無限にして崇高(すうこう)、偉大な真理の働きを示現するものである」と教えられておられます。